2026年4月19日日曜日

1888年の謎

先週は、本当に素晴らしい1週間でした。悩んでいた若者に、今、何故SDAかをお渡しする機会、チャンスになり、若者が熱心に読んでくれたことでした。

https://small-light-testimonies.blogspot.com/2015/08/sda_67.html

ちょうど30年前に書かれたこの本は

「それはすぐには表面化しないかもしれないが、 私自身この真理に触れたことによってすでに運命のわかれ道を歩み始めたと信じている。知った以上何も起こらない筈がない。聖霊を受けるか、拒むかのどちらかである。 時は迫っており、どこかで何かが起こらねばならない。「今、何故 SDA か」 の解答となる何かが…。」

で終わっています

1888年のメッセージ エレンホワイトさんが支持したメッセージ、また「これが真理です」と言う声の他、これはよくわからないとか。LGT つまり再臨の間に人は完全になるとの教えの先駆者、人は完全になれない、などと言われていました。

確かに、1888年のメッセンジャーは

「どうして信仰によって義とされるという教理が、神の律法を軽視させると考える必要があるのでしょうか。…義とせられるというのは心に律法が確立される事です。…キリストは御自分の義を 与え、罪を取り除き、御自分の義をそこに据えられます。これはその人を全く変えてしまうのです」

とあり、何も起こっていない自分を見て そう思う・・かもしれない

 しかし、ある方のあかしを聞いて、それは実は 自分の高慢、感謝のなさ から来ていたことを知った時は本当に大発見でした。

これです「多くの人々はあちこちの書物を読んで、語り合う。しかし、私は馬鹿だから・・・聖書の箴言から始める」と言った方がいました。すると別の教会員が「そんなことは親から学んでくることよ」と言われたとか。

天にまで続く、長い階段を見て、わからない、高すぎる、LGT つまり完全にはならない、と考えていて

「わたしは馬鹿だから」とわかった事を一歩足を上げることをしない。

また、頂上に到達しないと感謝できないと考えていて一歩足を上げられたことに感謝しない。これが高慢。

足を上げて一歩上がれたら感謝、2歩上がれたら感謝。何故なら、それは神さまがしてくださったことだから。

種は種で完全、芽は芽で完全、葉は葉で完全、花は花で完全、実は実で完全、これが完全。この1888年のメッセージを知らなかったからでした。まさに「わたしは馬鹿だから」が大変重要だったのです。

ルカによる福音書です「使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。」

信仰を増すには、と思っていた私は、その答えにとても驚きました。

「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」多くの人々は、絶望的な状態で、神さまに「造り変えられたいです」と祈るが、何か良くなると 他のせいにする、自分の手柄にする。9人のらい病人のように イエスさまに栄光を帰さない。これが高慢。そのために「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。にならなくなる。

あたかも子供が 1人で育って来たかのように錯覚し、文句を言う。これが高慢。神さまがすでに良きことを始められてくださったのに感謝しない。

「まだ変えられていない、」

「足りない、まだ足りない」と文句ばかり言う。

あまりに自分に当てはまってびっくりしました。しかし、これが1888年の謎を解く鍵だったのです。

「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”、“この場で”与えられています。 あなたは今、義に造り変えられる事を 望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です。…世界で最も単純な事です」(ATJ RH 1896 11/10)。

高慢な人から謙遜な人になる、自分の中に謙遜という義を見つけようと、さんざん悩んできました。

初代文集です。「われわれは、真理、すなわち救いの真理を、暗黒の中にいる飢えた人々に与えなければならない。わたしは、多くの人々が、神に、謙遜にしてくださるようにと祈っているのを見た。しかし、もし神が彼らの祈りに答えられるとするならば、恐るべきわざにより、義のうちに答えられるのである。へりくだることは、彼らの義務であった。」


そしてすごいあかしに出会いました。クリスチャンの奉仕です「そして彼は、寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いをあきらめようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼は、その人を助けたいという謙遜な気持ちになった。」クリスチャンの奉仕 覚醒  教会へのあかし 第4巻

https://small-light-testimonies.blogspot.com/2011/12/blog-post.html


わたしは馬鹿だから、わかったことだけ、足を一歩上げる、

こんな者にありがたいと感謝に溢れる。

救いを暗黒の中にいる飢えた人々に与える、

自分と同じように凍死しかかっているその人を助けたいと謙遜な気持ち、

これが謙遜であることを知った時は本当に大きな喜びでした。各時代の希望です

「懐疑と不信は謙遜ではない。キリストのみことばを絶対に信ずることこそ、真の謙遜であり、真に自己を放棄することである。」実は先週、このあかしを書いて 安息日学校ガイドを見た時、衝撃でした。なんと 題が「誇りと謙遜」だったからです。「天使たちは自分が偉くなろうとする者とでなく、魂を救おうとする者と協力することができる。」高慢の反対は、私は謙遜になったという事ではなく、人を救おうとする事だったのです。

実は先週、このあかしを書いて 安息日学校ガイドを見た時、衝撃でした。なんと 題が「誇りと謙遜」だったからです。

「天使たちは自分が偉くなろうとする者とでなく、魂を救おうとする者と協力することができる。」

高慢の反対は、「私は謙遜になった」という事ではなく、人を救おうとする事だったのです。


われわれの義はキリストの内のみに見いだされる。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネによる福音書15章

これ以上の謙遜ってあるのであろうか???

完全になるということは、私は完全になった、ということではなく、神さまを第一に愛し、隣人を自分のように愛することだからです

「そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」マタイによる福音書22章




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