イエスさまやパウロさんでさえ、祈りのチームを持っておられました。
「園の入口の近くで、イエスは3人の弟子たちのほかは全部残して、彼らに、あなたがた自身のために、またわたしのために祈るようにとお命じになった。」各時代の希望
大変失礼ですが、あの失敗ばかりしていた弟子たちに?? 結局は居眠りしてしまうで弟子たちに??人がイエス様のために祈るの?と衝撃的にびっくりしました。
パウロさんもまた、手紙を書かれた人々に、御自分のために祈るように書いています。前回の安息日学校ガイドは「謙遜による一致」でしたが、謙遜とは何かを学びます。
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。マタイによる福音書
親の信仰であって、自分の信仰ではない、と言う言葉を聞きますが・・・
かつて、自分は信仰を勝ち取ってきた、もぎ取ったきた、と思っていました。しかし、ある時倉庫で重い缶詰を運んでいた時に、
そうではない。
誰かが自分のために何度も何度も祈り、誰かが何度も讃美歌を歌い、誰かが何度も聖書を説明し、誰かが何度もあかしをし、誰かがずっと教会を整え、誰かが毎週花を飾り、誰かが自分の時間を割いて数限りにない数の食事の準備を作ってくれて、今の自分がいる…ことを知って涙が止めどなく流れました。
「私たちを救うために下げられている鎖の長さを知り、キリストが身代わりになって払われた限りない犠牲をいくらかでも悟るとき、心は言い知れぬ感謝にあふれ、悔いくずおれずにはいられないのです。」キリストへの道
「自分の信仰」なんてありっこない。信仰もまた神さまの賜物・・・
「それだから、自分の信仰は弱いと言って、言い訳をする余地はだれにもありません。賜物を受けいれずに役立てていない人はいるかもしれませんが、「弱い信仰」などというものはありません。ある人は「信仰にあって弱い」かもしれません。それは信仰に依存することを恐れているのであって、信仰自体は神のみ言葉と同じくらい力強いものなのです。キリストの信仰のほかに、信仰はありません。それ以外に信仰と言われているものは、皆まがいものです。キリストだけが義です。」1888年のメッセージ EJワゴナー よきおとずれ キリストを信じる信仰による命 https://small-light-testimonies.blogspot.com/2022/10/2.html
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰(英語 KJVではthe faith of Jesus Christ=キリスト・イエスの信仰)によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰(英語 KJVではthe faith of Chris=イエスの信仰)によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」ガラテヤ人への手紙2章16節
とすると、
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスの信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストの信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」
「キリストは神によって生活なさいました (ヨハネ 6:57)。 世におられた彼に、神がお与えになった信仰は、彼が死なれるとき三日目によみがえるべきことを、確固として繰返し言われたことに示されているような性質のものでした。 この信仰にあって、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って彼は死なれました (ルカ 23:46)。」
1888年のメッセージ EJワゴナー よきおとずれ キリストを信じる信仰による命
https://small-light-testimonies.blogspot.com/2022/10/2.html
すべては「キリストの信仰」人はそのイエスさまの信仰によって義とされる。まさに
「信仰自体は神のみ言葉と同じくらい力強いものなのです。」
「自分の信仰」を確立しないと、親の信仰ではなく、自分の信仰でないといけないと言う言葉を聞きますが・・・「今、何故SDAか」にこのような文章があります。
「また、この福音が必ずしも救いの確証と平安を与えるわけでもない。信者が救いの根拠として自分の信仰に目を向けている以上、「私は本当に信じているだろうか」「あの時の悔い改めは本物だっただろうか」「私の信仰は十分だろうか」等という恐れはいくらでも起こり得る。」今、何故SDAか より
しかし、土台が「キリストの信仰」なら全く違います
キリストの信仰による義、「キリストだけが義です」ここに平安があります。
「生きているのはわたしたちではなく、 キリストがわたしたちのうちにあって生きておられ、わたしたちをサタンの力から解放するためにご自分の力をお用いになるのです。わたしたちは何をしなければならないのかとお聞きになるなら、こうお答えします。キリストがわたしたちのうちにあって、キリストのやり方で生きるようにしていただきましょう。「キリスト・イエスのうちにあったのとおなじその思いがあなたのうちにあるようにしなさい」。 どうしたらわたしたちは彼にそうしていただけるでしょうか。ただ彼を認めることによって、 彼を告白することによってです。わたしたちは理解することはできないし、栄光の望み、わたしたちのうちにいますキリストという奥義を説明することはできませんが、わたしたちの命をささえるために奉仕している自然界のすべてのものがその事実を教えています。わたしたちの上に輝く日光、吸う空気、食べる食物、そして飲む水はみな、わたしたちに命をもたらす手段です。それらのものがわたしたちにもたらす命は、キリストの命にほかなりません。彼は命だからです。 このようにわたしたちは、キリストがわたしたちのうちに生きることがおできになるという事実の証拠を、わたしたちの前にも、またわたしたちの内にも常に持っているのです。もしわたしたちが、み言葉に、わたしたちの内にあって自由な道筋をとらせるなら、それはわたしたちのうちで栄光となり、またわたしたちを栄光あるものとします。 」1888年のメッセージ EJワゴナー よきおとずれ キリストを信じる信仰による命
https://small-light-testimonies.blogspot.com/2022/10/2.html
人は説明することはできないかもしれませんが、今、この場で、体験することができる。
「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が ”今”、”この場で”与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純な事です。」1888年のメッセージATジョーンズ

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