世界に伝えたいメッセージは何ですか?
「神の愛は、憐れみのうちにばかりでなく義のうちにもあらわされた。義は神のみ座の基礎であり、神の愛の実である。憐れみを真実と義から引き離そうとするのがサタンの意図であった。」各時代の希望 第79章 「すべてが終った」
講壇からは 愛、愛と語れるが 「聖」 「義」を語られることがない。
「心霊術は現在の形においてさえ、以前よりも容認すべき性質のものではないどころか、実際にはもっと巧妙な欺瞞であるためにいっそう危険である。それは以前にはキリストと聖書を非難していたが、今はこの両者を受け入れると公言している。しかし、生まれ変わっていない心を喜ばすような方法で聖書が解釈され、他方、聖書の厳粛で重大な数々の真理が力ないものとされている。愛は神の第一のご性質として繰り返し説明されてはいるが、善と悪をほとんど区別しない弱々しい感傷主義に堕している。神の正義、罪に対する神の非難、神の聖なる律法の諸要求は、すべて無視されている。人々は十戒は死文であると考えるように教えられる。喜ばせ魅惑するような作り話が人々の感情をとらえ、聖書を自分たちの信仰の基盤とするのを拒否させようとする。以前と同じにキリストは実際には拒まれているのであるが、サタンは人々を盲目にしてその惑わしが見分けられないようにしているのである。」
各時代の大争闘 心霊術の変貌
なので、神さまの愛は、神さまの義、信仰による義が語られる時のみ、語ることがで来ます。引き離すことはできない。
「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が ”今”、”この場で”与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純な事です。」ATJ
どうして?イエスさまの十字架があるからです。
さて、最後のメッセージ、神さまの愛の啓示、
神さまの愛は アメージングレースと呼ばれるほど、「驚くべき愛」「びっくりする」「驚愕」「言葉がない」ほど計り知れないほど大きい。
「ことばというものはあまりに貧弱で、天国の光景を描写することができない。天国の光景がわたしの前に現れるにつれて、わたしはただ驚嘆するよりほかはない。そのすぐれた壮麗さと、そのすばらしい栄光に心を奪われたわたしは、筆を投げて叫んだ。『ああ、なんという愛!なんという驚くべき愛ぞ』と。どんなことばでほめたたえてみても、天の栄光と比類のない救い主の愛の深さを描写することはできない。」初代文集
なので聖書を読んでいて、イエスの愛を知って、あかしの書を読んでいて、驚いていないと 「何か」が認識できていないことになります。
マタイによる福音書21章にぶどう園のたとえ があります
「収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。」マタイによる福音書21章34~37節
人は伝道しに行って、聞いてくれないと 反応がないと、あきらめてしまう。伝道は難しい・・・と。しかし、ここでは袋だだき、殺され、石で撃ち殺されても、なんと!前より多くの伝道者を送られます。ありえないです。しかも、彼らも「同じように」つまり、袋だだきなどにされるのがわかっていて・・・
安息日学校で「皆さんが主人ならどうされますか??」 との質問に「その人々を拷問にして」みたいな発言もありました。今の時代なら、警察に届ける、裁判でさばいてもらう。盗みと強盗、殺人罪???で裁いていただく。神様に裁いていただく、などなど。
実際に今の世の中なら、もっと比較的小さな罪「意地悪された」「馬鹿にされた」などなどでも 世界大、「滅ぼしてしまえ」ぐらいに思う。
しかし、「この人々に」 神さまは「神さまのひとり子」を送られました。
こんな宣教師がいるだろうか。こんな伝道師がいるだろうか。たった一回トラクトを配って、たった一回講演会を開いて、止めてしまう人々が、教会がどんなにか多い事だろう。困った書き込みをされてネット伝道をあきらめてしまう人々がどんなに多い事だろう!
ここに、「この伝道地」に、この犯罪者たちに、ひとり子を遣わされます。びっくりしない人がいるのだろうか???
「このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。」マタイによる福音書21章40、41節
それは「普通の感情」でした。しかし、なんと!神さまは その後に ひとり子を殺したその人々に憎しみで心がいっぱいの人々に、使徒たちをお遣わしになられるのです。
わ~ 福音を伝えるのは難しい、伝道が進まない、何て言っている、人を裁いている自分がばかばかしくなります。
筆を投げて、叫ぶくらいの感動です。伝道の推進力をいただきます。
ところが・・・当の本人たち、祭司長たちは、イエス様の奇跡をいっぱい見せられて、神さまであられるイエスさまにお会いし、神さまからの直接の神の御言葉を聞いた当の本人たちが、
「祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕えようとした」
こちらもびっくりです。なので、聖書やあかしの書を読んでいて、驚愕しないのであれば、感動していないことがあれば・・・
「いかがであろうか?これを聞いて興 奮しない人がいたら、その人は祈ってもう一度読み直すべきであろう。」
1888年のメッセージ接した 一青年のコメントです。どれほど興奮しているかが伝わります。
自分には初め、この興奮がなかったので、どうかして知りたいと思いました。そして、祈って、それが知りたいと研究しました。
わ~、これだ!と聖書やあかしの書、1888年のメッセージにとんでもない宝を発見してびっくりしています。しかも、これは「必ず与えられます」
「聖書は、決して祈りをささげずに研究してはなりません。ページを開くときは、聖霊の導きを祈らねばなりません。この導きは必ず与えられます。ナタナエルがイエスのもとにきたとき、救い主は、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と賛嘆の叫びをあげました。ナタナエルが「どうしてわたしをご存じなのですか」と尋ねると、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1:47、48)とお答えになりました。イエスは、私たちが真理を知ることができるようにと光を求めるとき、それが隠れた場所の祈りであってもちゃんとご覧になっています。心を低くして神の導きを求める者には、天使が光の世界から送られるのです。」キリストへの道
「教会は、いつも神との交わりにある教会員の、生きた、新鮮な体験を必要としている。キリストを表さない無味乾燥な新鮮味のないあかしや祈りは、人々の役に立たない。神の子どもであると称する者めいめいが、信仰と、光と、生命に満ちているならば、真理を聞きにやってくる人々にどんなにか素晴らしいあかしを与えることであろう。そして、どんなにか多くの魂がキリストに導かれることであろう。」 ~教会へのあかし~
神さまの愛、イエス様の愛、聖書、あかしの書は変わらない。
あかし、祈りはいつも新鮮、無味乾燥なものはない。しかし、私にはない・・・と思う時
「他人を助けたいと望みながらも、与えるべき霊的能力も光も自分にはないと感じる者がたくさんいる。そのような人は、恵みの座に来て彼らの願いを述べるがよい。聖霊を求めなさい。神は、そのすべてのお約束を保証しておられる。聖書を手に持って、わたしは、あなたのおっしゃったとおりにいたしました。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう』とあなたはお約束なさいました、と言いなさい。」~豊かな人生の秘訣~
「聖霊は、隣人に与えるために命のパンを求めている人々みんなに臨む」~教会へのあかし・第6巻・90ページ~
「不健康に悩む者が他人を思う気持で自分を忘れ自分よりももっと困っている人に奉仕をなさいとう言われる主の命令を守るならば、「そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ」るとの預言の約束が真実であることを知るであろう。~ミニストリーオブヒーリング~
「多くの人々は、なぜ自分の祈りに生命がないのか、自分の信仰が弱く、動揺しているのか、自分のクリスチャン経験が暗く、不誠実なのかをいぶかっている。『われわれは断食をし』、『万軍の主の前に悲しんで歩いたではないか』と彼らは言う。イザヤ書58章の中で、キリストはこの状態がどう変化するかをお示しになった。・・・6節、7節。これは、キリストが臆病な、疑い深い、震える魂のためにおすすめになった処方である。主の前に悲しんで歩く悲しみに満たされた人々は立ち上がり、助けを必要としているだれかを助けよう」(教会へあかし 第6巻266ページ)
わたしは、このキリストの処方に癒されました。
わ~ 何という愛、何という驚くべき愛ぞ!

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