2026年3月22日日曜日

ゆだねる

神さまに重荷をゆだねなさい。 しかし、ゆだねられない。完全にゆだねられない、いう言葉を教会ではよく聞きます。 中には「ゆだねた時」こうなったいう証も聞きます。

この文章見てびっくりです。

「わたしたちは自分の重荷を主にゆだねます。それは、自分の手でそれらを集めたり、自分で考えたり、少し雌れたところにおられるかたに自分から投げつけたりしてそうするのではありません。そんなことはできるはずがありません。」

「多くの人たちが自分の罪や苦痛や心配や悲しみを取り除こうとしては、失敗してきました。そしてついには絶望にほとんど沈むばかりになり、再び頭の上に積み戻したものが今までにないほど重く惑じています。何がむずかしいのでしょうか。こういうことです、つまり彼らは、キリストを自分たちから離れた所においでになるかただと思い、その間に自分で橋をかけなければならないと感じているのです。しかし、それは不可能です。「無力な」人間は、その重荷を自分の腕の長さほどの距離も投げることはできません。」

え~難しいのではなく、不可能なの???

「それは、唯一つの支え、わたしたちの命、あらゆる行為をさせる力あるかたとしてキリストが自分の内におられることを、わたしたちが認めて告白し、またそれゆえ自分は何者でもないと告白し、自分が見えなくなるように沈め、もう自分を欺かないようにする時、その時にわたしたちは重荷をキリストにゆだねる事になるのです。」

「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」コロサイ人への手紙第1章27節

ゆだねるってこれ?

この奥義をスルーしてコロサイ人への手紙は終われない。

これか・・・パベルゴイヤ牧師が語ったのこの祈り。イエス様が心の中にお住いください。

ユナイテッドプレイヤーでは毎日この言葉祈りをします。

「それはわたしであるが、わたしではなく、わたしの内なるキリストです。このキリストの教訓をまだ学んでいない人が世には多すぎるほどいます。だから神の子どもは皆、常に、他人の重荷を負うということに、なすべき働きを見出します。自分の心だけで精一杯な者をさがすために、彼自身のものは主に預けます.わたしたちの肩に落ちる重荷の下には、常に「力あるかた」がおられるというのは祝福ではないでしょうか。」

そして、

雪の中で

https://small-light-testimonies.blogspot.com/2011/12/blog-post.html

また、

「これはキリストが臆病な者、疑う者、恐れおののく者のためにお勧めになった処方である。主の御前を悲しげに歩む悲嘆にくれた人々は立ち上がり、助けを必要としている人を助けよう。」―教会へのあかし・第6巻・266ページ


「ですから、自らをクリスチャンと呼ふ者は、だれか他の人に頼って満足を得ようとするのではなく、自分自身弱い者の中でも最も弱い者かもしれないが、重荷を負う者、神と共に働く者となりましよう。キリストにあって、不平を言わずに自分の重荷を静かに負い、そして隣人の重荷をも負う者になりましよう。そういう人は何も言わない兄弟の重荷を何か見つけることができ、それを負うのです。また他の人も同様にするでしよう。たから弱い者の喜びは、このようなものとなるでしよう、「主はわがカ、わが歌であって,わが救となられた」(詩篇118 14)。

このキリストの処方で癒されました。本当に素晴らしい福音だと思います。

以下 引用文

自分の重荷を負いなさい ガラテヤ人への手紙にみる福音 よきおとずれ GLAD TIDINGS 6章

「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきであるJ。これは2節と矛盾するのではないでしょうか。そうではありません。聖書が、わたしたちに互いの里荷を負いなさいと告げる時、それは自分の重荷を人に投げつけるようにと言っているのではありません。それぞれが各自の重荷を主にゆだねるのです(詩篇55: 22)。主は全世界のすぺての人の項荷を、集団としてではなく、個人個人のものとして負われます。わたしたちは自分の重荷を主にゆだねます。それは、自分の手でそれらを集めたり、自分で考えたり、少し雌れたところにおられるかたに自分から投げつけたりしてそうするのではありません。そんなことはできるはずがありません。多くの人たちが自分の罪や苦痛や心配や悲しみを取り除こうとしては、失敗してきました。そしてついには絶望にほとんど沈むばかりになり、再び頭の上に積み戻したものが今までにないほど重く惑じています。何がむずかしいのでしょうか。こういうことです、つまり彼らは、キリストを自分たちから離れた所においでになるかただと思い、その間に自分で橋をかけなければならないと感じているのです。しかし、それは不可能です。「無力な」人間は、その重荷を自分の腕の長さほどの距離も投げることはできません。そして、腕の長さだけでも主を引き離しているかぎり、自分を疲れさせる重荷から逃れて休むことを、わたしたちが知ることはないでしょう。それは、唯一つの支え、わたしたちの命、あらゆる行為をさせる力あるかたとしてキリストが自分の内におられることを、わたしたちが認めて告白し、またそれゆえ自分は何者でもないと告白し、自分が見えなくなるように沈め、もう自分を欺かないようにする時、その時にわたしたちは重荷をキリストにゆだねる事になるのです。主はその重荷をどうしたらよいかご存じです。だから彼と共にくびきを負って、人の重荷をどのように負ったらよいか、わたしたちは学ぶのです。  


 では、自分の重荷を負うことについてはどうなのでしょうか。ああ、それを負うのは「わたしたちの内にあって働く神の力」です。「わたしはキリストと共に十字架につけられた、生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」。それはわたしであるが、わたしではなく、わたしの内なるキリストです。このキリストの教訓をまだ学んでいない人が世には多すぎるほどいます。だから神の子どもは皆、常に、他人の重荷を負うということに、なすべき働きを見出します。自分の心だけで精一杯な者をさがすために、彼自身のものは主に預けます.わたしたちの肩に落ちる重荷の下には、常に「力あるかた」がおられるというのは祝福ではないでしょうか。  


 この教訓をわたしたちはキリストの生涯から学ぶのです。彼は良いことをしようと出て行かれました。神が彼と共におられたからです。彼は嘆く者を慰め、傷ついた心をいやし、悪鬼に悩まされていた者を皆いやされました。悲しい話や病気に悩んで彼のところに来た者で、たれひとりとして救われないで戻った者はいませんでした。「これは、預言者イザヤによって『彼は、わたしたちのわすらいを身に受け、わたしたちの病を負うた』と言われた言葉が成就するためである」(マタイ8:17)。それから夜がきて群衆か眠りにつくころ、キリストは山ヤ森に行かれ、天父との交わりを求められました。父によって彼は生きておられました。彼は、ご自分のための命とカの新鮮な供給を見出すためにそのようにされました。「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい」。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか」(第2コリント13:5)。 「彼は弱さを通して十字架につけられたけれども、神の力によって生きておられる。わたしたちもまた彼と共に、弱いけれども神の力によって彼と共に生きるためである」(4欄外註)。だからもしわたしたちの信仰が、キリストがわたしたちのうちにおられることを証明するなら一そして信仰は事の現実をわたしたちに確証します一、わたしたちは他の人の内にではなく、たた自分自身の内に喜びを持ちます。わたしたちは主イエス・キリストを通して神を喜びます。そしてわたしたちの喜びは世の何ものにも依存しません。だれもがあやまちを犯し、失敗するけれども、わたしたちは立つことができます。なぜなら神の上台、キリストは堅く立っているからです。  


 ですから、自らをクリスチャンと呼ふ者は、だれか他の人に頼って満足を得ようとするのではなく、自分自身弱い者の中でも最も弱い者かもしれないが、重荷を負う者、神と共に働く者となりましよう。キリストにあって、不平を言わずに自分の重荷を静かに負い、そして隣人の重荷をも負う者になりましよう。そういう人は何も言わない兄弟の重荷を何か見つけることができ、それを負うのです。また他の人も同様にするでしよう。たから弱い者の喜びは、このようなものとなるでしよう、「主はわがカ、わが歌であって,わが救となられた」(詩篇118 14)。

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