ある牧師さんがとっても悩んでいました。ご家族とハイウェイを自動車で走っている時、こう思いました。ハイウェイの数々の道路標識を見ながら、「わたしも神様からこういう道路標識のお導きがほしい」と思っていました。さて食事時になったのでパーキングエリアに入り、ご家族は食堂に入りました。しかし、牧師さんは車のそばに椅子をだして、座っていました。
すると、突然目の前の「公衆電話」が鳴り始めました。「だれかとるだろう」と待っていましたが、誰もとりませんでした。止む得ず牧師さんが立ち上がって電話をとりました。
「○○先生ですか」
と突然自分の名前を言われ、びっくりしました。
電話をかけてきた方は、今にも自殺しようとしていました。しかし、何年か前○○牧師の話を聞いたことがあり、「死ぬ前にもう一度お話がききたい」と思いました。
しかし、電話番号も何もしりませんでした。がっかりして、死のうと思った瞬間、目の前に数字がずらっとならびました。すぐにメモして電話をかけたのです。
牧師さんは答えました。「あなたはご存知ですか、これはわたしのオフィスの電話番号ではありませんよ」
「別の州の、ハイウェイのたまたまよったパーキングエリアの公衆電話の電話番号です。」
二人はあって、お互いに生きる勇気をいただきました。
すると、突然目の前の「公衆電話」が鳴り始めました。「だれかとるだろう」と待っていましたが、誰もとりませんでした。止む得ず牧師さんが立ち上がって電話をとりました。
「○○先生ですか」
と突然自分の名前を言われ、びっくりしました。
電話をかけてきた方は、今にも自殺しようとしていました。しかし、何年か前○○牧師の話を聞いたことがあり、「死ぬ前にもう一度お話がききたい」と思いました。
しかし、電話番号も何もしりませんでした。がっかりして、死のうと思った瞬間、目の前に数字がずらっとならびました。すぐにメモして電話をかけたのです。
牧師さんは答えました。「あなたはご存知ですか、これはわたしのオフィスの電話番号ではありませんよ」
「別の州の、ハイウェイのたまたまよったパーキングエリアの公衆電話の電話番号です。」
二人はあって、お互いに生きる勇気をいただきました。
この証を教会の安息日学校の青年のクラスで話していた時の事です。一人の青年が手を上げました。「僕の親戚の方も、同じように教会の電話番号を教えていただいたことがあります。」と。証とは私たちが忘れていた事を思い出させるためのものです。
ある証の中の話です。ある方が夢を見ました。それは天使が泣いている夢でした。
天使は涙ながらに彼女に話しかけます。「ここに答えを書きなさい」そして、教会のことについていろいろなことをはなされたのです。そして最後に、こうおっしゃったのです。「人類は決して滅んではならないのです。なぜなら、イエス様の十字架の傷は永遠にわたって失われたもののために痛むからです」
イエス様が、全人類の罪のために十字架に付けられた、というのはなんとなく理解できました。また、この人のために、とかあの人のために十字架に付けられたというのならば理解できます。しかし、わたしのために至高の神の御子が天国をお捨てになられて地上に来られ、私のために侮辱と屈辱をお受けになり、十字架の苦しみに耐えられたというのは、理解を超えています
この証を聞いて、思いました。もし自分が天国に行けなくて、滅んだとしてもずっと覚えていてくださる方がいるんだ・・・そしてもう一つ、私のためにずっと永遠に痛み続ける方がいらっしゃるんだ。ということでした。神様の愛とは、何と驚くべきものだろう、と思いました。そして、多くの方々がもはや死も悲しみも、叫びも痛みもない地において、歓喜のうちに主の御前に立つとき、自分もそこに立っていなければならない、と思いました。なぜなら「イエス様の御傷は永遠にわたって失われたもののために痛むからです」
私たちの前に、今日というまったく真っ白な1ページが開かれています。誰もがここに「生き方」というペンで「答え」を書いていきます
「神様の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”、“この場で”与えられています。あなたは 今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいます か?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純なことです。」
理念もそうですが、聖書の高い標準を見て、「登れない」というのではなく、まず一歩足を上げることが重要だと教えられています。そして1歩1歩と足し算で積み重ねる時、主はかけ算で報いてくださるとあります。
最後に聖書を読ませていただきます。
マタイによる福音書25章です
「あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」
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