「『求めよ、そうずれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうずれば、あけてもらえるであろう」』マタイ7-7)
主は、そのみことばについて、不信や誤った理解、解釈の余地を残さないように、三度繰り返して言われた約束をもう一度仰せになっています。主は、神を求める者に、万能の神を信じさせたいと望んでおられるので、『すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである』とつけ加えておられます』(マタイ7-8)」祝福の山p170
今のような為替レートではなかった頃です
アメリカに娘さんを留学されていたお母さん、
しかし、経済的には厳しい・・・とうとう授業料が払えなくなってしまいました
いろいろは方策を考えようとしましたが、「わたしたちはクリスチャンだから・・・」ということになり、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」とのイエス様のお約束に従い、祈りを捧げました。
しかし、援助は何もありませんでした。
いよいよ、授業料の期日がやってきます。この日までに払わないと退学になってしまいます
親子で、祈りが捧げられ、電話で色々なことが話されました。そして信仰と心が磨かれていったのです。「たとえ、どうなろうと御心ならばそれで良い。」との話になりました。
期日がやってきました。すると、思いがけないところから寄付金が与えられたのです
しかも、それは必要な額のぴったりの金額だったのでした。
他の方は、やはり娘さんがアメリカに語学の勉強のために留学していました。
銀行から仕送りをしていたのですが、自分の計算によると、もう残高がない。
定期的に家に訪問してくる銀行の担当の方に、
いつも「今月は大丈夫でしょうか」と聞きました。
すると担当の方はいつもにこやかに「だいじょうぶですよ」と答えたのでした。
そして、留学の期間が終わると、その担当の方は「いつの間にかいなくなっていた」のでした。
「天使の方だったのかもしれない」と証しされていました
商売の支払いの時に、預金残高がなかったとき、預金高が1桁増えた話し、
また、仕事で失敗してしまって、間違った法外な高い品物を買ってしまった時、特別な助けがありぴったりの金額で損失を免れた証など、数々の証があります
「天においても地においても、一切の権威をもつおかたからくる賜物は、神の子らのために蓄えられています。その賜物は非常に尊いもので、高価な犠牲である贖い主の血潮によってあたえられたものです。それはまた人の心のどんな願いでも満足させ、永遠に続くものであって、幼な子のように神のもとにくるすべてのものが受けてその祝福にあずかるものです。神の約束をあなたに与えられたものとして受け、それを神ご自身のお約束のことばとして神の前に申し上げましょう。そうすれば、あなたは喜びに満ちあふれるでしょう」(祝福の山p175)
0 件のコメント:
コメントを投稿