韓国で・・・川が轟々と流れていました。
その時、ある方々が「神様はモーセの時代
紅海を分けてくださった・・・だから・・・」と一晩中祈りました。
しかし・・・・川は分かれず・・・
日本のある病院で、職員向けの食料品の特別販売日がありました。
その責任者が、朝の朝礼で、
お祈りして・・・「みなさん、御業を体験しましょう!」
(こりゃだめだ・・・)
次の日、雨が・・・ずっと降っていました
神様の御言葉よりも、自分自身を上に持ってくる・・・
自分達が、塵にすぎないことを忘れてしまっているのです。
「だが信仰は決して独断的な信仰と関係がない。真の信仰を持っている者だけが独断的な信仰に対して安全である。なぜなら独断的な信仰はサタンから出た信仰のにせものだからである。信仰は神様の約束をわがものとし、従順という実を結ぶ。独断的な信仰もまた神様の約束をわがものにするが、サタンと同じように、これを罪とがの言い訳に使う。信仰があったら、アダムとエバは神様の愛に信頼し、神様の戒めに従ったのである。ところが独断的な信仰のために、彼らは律法を犯し、神様の大きな愛によって自分の罪の結果から救われると信じた。あわれみが与えられる条件に従わないで天の神様の恵みを要求するのは信仰ではない。真正の信仰は聖書の約束と条件とを土台にしている。
サタンは、不信の念をひき起こすことに失敗したとき、われわれを独断的な信仰におちいらせることに成功することがたびたびある。サタンは、われわれが不必要に誘惑の道に身をおくようにさせることができれば、勝利は自分のものであることを知っている。神様は服従の道を歩む者はだれでも守ってくださるが、その道から離れることはあえてサタンの側にはいって行くことである。そこではわれわれは必ずつまずいてしまうのである。救い主は、『誘惑の陥らないように、目をさまして祈っていなさい』とお命じになった。瞑想と祈りとは、われわれが自分から危険の道にとびこまないようにする。こうしてわれわれは多くの敗北から救われるのである。
しかし、試みに攻められても、勇気を失ってはならない。困難な立場におかれると、われわれは神様のみたまがみちびいておられるのだろうかと疑うことがたびたびある。だかサタンの試みを受けるためにイエス様を荒野へ導かれたのは神様のみたまであった。神様がわれわれを試みに会わせられるとき、神様はわれわれの益のために達成すべき目的を持っておられる。イエス様は神様の約束につけあがって自分から試みの中にとびこんだり、あるいは試みがやってきたとき落胆してあきらめたりされなかった。われわれもまたそうでなければならない。『神様は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである』。神様はこう言われる、『感謝のいけにえを神様にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果たせ。悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう』」
この約束は真実です。
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