数々の証を見ても、あるいは聞いても、何の力にもならない時があります。罪に悩んでいるときです。
イエス様は肉体の病をお癒しになられ、イエス様が心の病をも癒すことのおできになられるお方であられることを、信頼するようにお望みになられた、と読んだことがあります。
証の目的は不思議な事をなされるイエス様ではありません。この醜い罪にそまった心を解放することのおできなられるイエス様こそ、証の意味があります。
僕が教会に来たばかりの頃、大きな集会の片隅に座りながらこう思っていました。「なんでみんな涼しい顔をしているのだろう」。僕の心は罪の心で荒れ狂っていました。それと戦うために「必死」でした。
ある集会で暗い顔をしていた僕は信仰の先を行かれる方に話していました。「罪が多くて・・・」。その方はこう聞かれました。「イエス様に2つか3つ清められたことはないの?」。僕はこう答えました。「二つか三つはあるけど、まだまだ多くて・・・」と。
そう言った時、信仰の先を行かれる方がすぐにおっしゃいました。「それは、傲慢です」。
そして、静かにこうおっしゃいました。「私たちの罪は、髪の毛ほどもあるかもしれないけれど、3つ清められたら、3つだけ感謝じゃないの?」。今でも残る言葉です。
「自分だけがこんなに罪深いのだろうか、自分だけ気違いなのではないか。自分は異常なのではないか・・・」と死ぬばかりの悩んでいた僕でした。
「私たちの罪は髪の毛ほどもあるかもしれないけれど」との言葉を聞いた時、「ああ、僕だけじゃないんだ」と思いました。「もしかしたら、自分は間違った道にいないかもしれない」と思いました。
そして「3つだけ感謝じゃないの」と聞いたとき「心が前に」向かったのです。
僕はこの話を何回も書きます。それは、真っ暗闇の中で見つけた「希望の光」でした。もし同じように苦しんでいる方が世界でたった一人だったとしても、その人のため書きたいと思います。それほど、罪の闇は深く、戦いは激しいからです。だからこそ、その喜びも深く、大きいです。
もう1つだけ文章を書きます。
「わたしは、一人の男がある冬の日に吹き寄せられた深い雪の中を旅をしていて、寒さに感覚を失いかけ、知らず知らずのうちに活力がほとんど奪われそうになったという話を読んだ。そして、彼は寒気に包まれてこごえ死にそうになり、もう生きるための戦いを諦めようとしていたちょうどその時に、彼と同じように凍死しかかっている別の旅人のうめき声を聞いた。彼はその人を助けたいという謙遜な気持ちになった。彼は雪だるまになっているその気の毒な人の体をさすり続け、かなりたってから後、その人を立たせた。彼は立つことができなかったので、自分一人では行けないと思っていたその雪の中を、親切にその人だきかかえて行った。そして、彼は仲間の旅人を安全な場所にまで運んだその瞬間に、隣人を救ったことで自分をも救ったのだという事実に気づいた。もう一人を救いたいという彼の熱心な努力が、彼自身の血管の中で凍りかけていた血液を生気づけ、手の先まで健康的なあたたかみを生み出した。」―教会へのあかし・第4巻・319、320ページ
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