2009年11月15日日曜日

聖霊様のお働き

さて、様々な証を読んだりすると、とってもいいことがあります。主の御業を思い出すからです。昨日、他の方の証を読んでいて、昔???の事を思い出しました。
かつて僕は、母親の財布からお金を盗んでプラモデルを買っていました。その盗る時のシーンを思い起こしました。そして買ったプラモデルも・・・。
教会に行くようになり、罪を自覚し、母親に今まで盗っていた事を告白します。そして「お詫びのしるし???」に大きい聖書を買って渡したことを思い出しました。

また、キセルの常習犯で(もう時効???ですね)罪を罪とも思わず、何の悪びれもせずやっていました。しかし、教会において、ザアカイさんの所を読み、罪を自覚します。さあ、4倍のお金?といってもいくらかわからなかったので、「このくらいだろう」と思い切って駅に行きます。
さあ、駅長室に入るに入れない。「捕まったらどうなるだろう!」「やめようかな・・」。恥ずかしいですが、朝早く駅に行ったのに「思い切って駅長室に入れたのは3時半・・・」。
駅員は「ここに座って」とおだやかに言います。そして資料を探し始めます。? そんな名前ないね・・・。名前は届けられていません。

「あの、そうではなく、今までやっていたので」と言うと、駅員さんが席につきます。「どのくらいやったのかね」「それが、よくわからないので・・・」とお金を封筒に入れて出すと、駅員さんは言います。「お宅の誠実さは、わかった」と返してくれました。
駅長室を出て、階段を下り、思います。「二度とやるものか・・・」。。。。(。><)

さて、当時僕は服もとってもだらしなく着ていました。「掃除と信仰と何の関係がある!」と反抗していたくらいですから・・・。
ある時、イエス様の弟子の方々は「言葉使いでわかる」ほど、きれいな言葉を使っていらしたこと、またイエス様が復活された時、着られていた衣を「くるめて」すなわち、たたんで墓を出られたことを知ります。そして、ヨハネさんは「これを見て信じます」。
「きれいにしなきゃ」と知った瞬間でした。
もちろん、考えることと実行することは「別世界」まったく別の次元ですから、それから、まだ訓練が必要でした・・・。
他にも多くの人々に、心が責められて謝りに行きました。
罪に固まっていた時は、罪がわかりませんでした・・・。

聖霊の神様は、罪を指し示してくださる素晴らしい御方です。
「主は我々の承諾なしに我々の罪を取り去る事をなさいません。私はいつでも主を選ぶか、自分の罪を持ち続けるかの選択をしなければなりません。・・・・これから後、神様が罪だと示されたら、それが、何であろうと捨てる事をためらうべきでしょうか。・・・主にこう言いましょう。『主よ、私は今選びます。私はこの罪とあなたとを引き換えます。わたしはあなたを選びます・・・。』一体どこの誰が自分の罪を示されて失望する必要があるのでしょうか。
さて兄弟がたの何人かはこの選びをさっそくなさっているかもしれません。ここに来た時は何も感じていなかった、今まで気づかなかった何かを聖霊が彼らに示されました。・・・するとそのように示された事を感謝して、罪を捨てるかわりに・・・彼らは失望するのです。『一体どうしよう。私の罪はこんなに多いのか』と・・・
もし以前には考えてもみなかった罪を示されたとすれば、それは主が心の深みを清めようとしておられる、というまでの事で、いつかはそれはついに心の底にまで達するのです。そして御自分の御旨にそわない、不純で汚れたものの最後の1つを取りだし、我々に示される時、我々が『そんなものよりキリストを持った方が良い』と言うならば働きは終了し、生ける神様の印がその人の品性の上に押されるのです。
完全にイエス・キリストによって満たされているのと・・・いくつかの罪を知らされずに保ち続ける事と、どちらを望まれますか?もし我々が罪を持ち続けるなら、どうして神様の完全な御品性である神様の印が我々に押されましょうか。それで我々が夢にも思わなかったような深い所まで主は掘り下げられるのです。我々自身は自分の心さえ知らないのですから、・・・主にその働きを続けていただきましょう。・・・もし主が我々に知らせる事もしないで我々の罪を取り去るとしたら、それには何の意味があるでしょうか。われわれは機械にすぎなくなってしまいます。・・・われわれは理知的な、神様の器なのです。・・・理性を備えた道具なのです。われわれは自分の選びによって神様のご用に用いられるのです。」

0 件のコメント: