2017年11月30日木曜日

大切な子

 ある時、教会の祈りの会に80歳くらいの一人のおじいちゃんが来ました。体の全身が痛いと話していました。教会では、イエス様の御名によって祈りが捧げられました。するとその痛みがその場ですっかり癒されたのでした。

それから数年後、再び教会でそのおじいちゃんと再会しました。
証の書の言葉の「真の礼拝は、キリストと共に働くことにある。祈りと勧めと話は、しばしば結びつけられる安い実である。しかし良い働きや、困っている人、父のいない子、やもめなどを世話することに表される実は本当の実であって、当然良い木に実るものである。レビュー&ヘラルド」と聖書の「真にたよりのないやもめたちに、よくしてあげなさい」という御言葉によって、この方のところへ訪問にするようになりました。しばらくしてご病気になり、何度か、東京衛生病院にご入院されました。そのころから夜や夜中、あるいは仕事中に電話がかかってきたり、東京新聞や飴が欲しいというので買ってきて・・・そのまま受け取られ、ふと、あれ?お金は?なんて思いながら、言い出せもせず、袋にレシートを入れて渡しましたが、残念ながら・・・何も変わりませんでした。その他いろいろあり、「人が「感謝がない」というのもわかるな~」とも思っていました。

ご家族はすでになく、ご親戚とは疎遠の状況でした。しかし、不思議に、時にかなってそのおじいちゃんに必要な助けが与えられて行き、イザヤ書の中の「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」とのお約束を神様が文字通り守られているのを見ました。そして自分の心の冷たさと、神様の愛の大きさの違いを教えられる経験となりました。人は、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と見ますが、神様にとっては一人ひとりが「大切な子供」として見ておられると思いました。

ご病気が急変され、死を目の前にした最期の時間、酸素マスクの下の苦しい息の中にあっても大好きな讃美歌を歌って神様を讃美しておられました。そして、お見舞いに来られた方々の手を強く握って「ありがとう、ありがとう」と感謝していました。
最後というので、ご親戚の方が一人来られました。そこで、おじさんの姿や人を許す力、その方ここまで支えられてきたその力を知りたい、そして最後の時の5階病棟の看護師さん方のやさしさ、お葬式の時にみんなで献花してくださった事、チャプレン、三育の学生の挨拶する姿などが心に残った、とおっしゃり、教会にこられるようになったのです。

やがてご親戚は安息日にも教会に通われるようになりましたが、ずっと「信じる、ということがわからない。」「聖書は難しくてわからない」と話していたいのです。しかしある時から、「信じるって素晴らしいですね。この信じるということを伝えていきたいですね」と話されるようになり、人をまったく造り変えられる神様のお力を強く感じました。そして今年3月にバプテスマを受け、いつも神様が共にいてくださるので喜びと勇気とをいただき、そして家族からも「お父さん丸くなったね」、と言われたそうで、大変喜んでいらして神様に感謝しています。
 
 おじいちゃんが亡くなられたあと、とても悲しく、重かったですが、神様のグリーフケア・・・ある時から、本当に晴れ晴れとした心になりました。表現が難しいのですが、それはちょうど神様が「私の子供をみてくれてありがとう」とおっしゃっておられるかのようでした。悲しみは一掃され、心は晴れ晴れとして、それまでの様々な思い出を本当に素晴らしく、尊い感謝の思いで振り返ることができるようになりました。

聖書にこう書いてあります。『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』マタイによる福音書

自分自身は、~先生、医事課の~さん、~看護師さん、あるいは~おじいちゃん、おばあちゃんと思うかもしれません。もしかしたら、ありえない、信じられない、感謝がないな・・・と思う事も起こるかもしれません。しかし、神様から「わたしの子供をみてくれてありがとう」と言われるような人生を送るために、神様のお恵みによって聖書の言葉に愚直に従うために、祈りをもって今日の働きを始めたいと思います

0 件のコメント: