「何をやってもうまくいかない日が、誰にでもあるものです」
この言葉にびっくり・・・そっか、誰にでもあるんだ・・・ぺテロさんやヨハネさん、ホワイトさんにも?
前に務めていた会社で、
もう何十年経理の仕事をしている年配の方が、会計上大失敗しました。
お金が無いのに、会計処理をしてしまったのです。
ところが、さすがプロ!会計を操作して、失敗をみごとにリカバリーしてしまいました。
プロとは、失敗しない人ではなくて、失敗を成功に変えてしまう人であることを勉強しました。
「しかし、わたしたちが自分を全く神様にささげて、神様の指導に従うならば、その達成については、神様が責任を負ってくださる。わたしたちが、忠実に働くならば、これが成功するかどうかを気にすることを神様は望まれない。失敗のことは一度でも考えてはならない。わたしたちは、失敗することのないお方と協力しなかればならない。」
のですが・・・
さて、失敗した時、どうするのですか?と聞いた時・・・信仰の先輩は
(自分が)肉(の人)だから、失敗したんだ、二度とやらない!と切り替える・・・そうです。
「『わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである』と主は仰せになる。これをわすれないでほしい。もしあやまちを犯した場合には、そのあやまちを認めて、それを再び繰り返さないように戒めとするならば、勝利を収めたことになる。こうして敗北を勝利にかえ、敵に乗ぜられることなく、あがない主にほまれを帰すことになるのである。」 豊かな人生の秘訣より
失敗すると、敵は必ず乗じてきます。
落ち込ませて・・・自信をなくさせ、自暴自棄にさせてきます。
責任感ないように思えても、お詫びして、スパッと切り替えて明るくした方が、次にもっと大きな罪を犯さなくて済む・・・事を知ったのは10数年前、以来ずっと助けていただき続けた証です。
相手は大敵サタンですから。
後で・・・意味の重大性がわかってきました。
何か失敗したとき、一人で考えこむのは一番ダメ・・・です。
粉々に砕かれた心で、いえそんな心にもなれず・・・
でも、祈りの条件は『必要』ですので、お詫びしながら、イエス様の憐れみを願い、聖書や証の書を開き、読みつつ、イエス様に心を注ぎだすと、聖書を通して、驚くべき回答をくださいました。
「主の憐れみがわれわれの唯一の希望である。祈りがわれわれの防御である」
「彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主は私たちの祈りをかえりみてくださらず、私たちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとします。私たち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神様にとって魅力あるものは何も見られません。サタンは、無駄だ、品性の欠陥を改めることはできないとわたしたちに告げます。私たちが神様のもとに来ようとする時、敵は祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神様に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくでしょう。しかし、わたしたちは、「御子イエス様の血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができます(ヨハネ第一・1-7)、私たちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのです。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかもしれませんが、祈り、かつ信じなければなりません。「『キリスト・イエス様は罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の頭なのである。・・・」
https://247unitedprayerjap.wixsite.com/247japan?fbclid=IwAR0ZqHZP-QVn-jVt-WiRyCMWQuSXZPkHgmYa3ZcdctBJin4RoksVX3mP-xA
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