詩篇71篇
「わたしの口はひねもすあなたの義と、
あなたの救いとを語るでしょう。
わたしはその数を知らないからです。」
私はその数を知らないからです・・・あまりに多くて語ることができないということでしょう。
私は以前、自分も真っ暗、周りも真っ暗、世の中も真っ暗だと思っていました。
生きていることは嫌でしたし、苦しいものでした。喜びなど1年に1瞬あるかな・・・
と思っていました。
今は、違います。
「わたしはその数を知らないからです」
神様のお恵み、主の愛、いつくしみがいっぱいありすぎて・・生きている喜び、仕事をする喜び、人生の喜びにいっぱいになっています。
主の恵みが変わったのでしょうか。
いいえ、以前も、また今も、変わることなく注がれていたのです
主は、反抗し、キリスト教が嫌いで、批判し、死んでしまいたい、と思っていた者が、
イエス様の愛に「気づくのをずっと待っておられたのです。」
さて、この病院で長い間ハウスキーピングのお働きをされていらした方がいらっしゃいます。その方の病院でのお掃除の仕事、働きは非常に優れていて、ダスキンの調査で、毎年、日本、あるいは世界でNO.1の評価をいただいていました
その方はおっしゃいます。「聖書の言葉に助けられたんだよ」
僕が「どの聖句ですか」とお訊ねすると。
すぐに「小さいことに忠実な者は大きなことにも忠実である。とかね」
と話されていました。
また、ある地方で非常な飢饉がありました。残されたおばあさんと、お孫さん・・・食べ物が全くなくなってしまったのです。そこでおばあさんはお孫さんたちと一緒に祈られました。
そこで一人の女の子のお孫さんが祈りました。「神様、私たちはパンを必要としています。それも小さなパンではなく、大きなパンを必要としています」
さて、何も起こりませんでした。しかし、子供たちが寝る時刻になった時、一人のおぱあさんの知り合いが急に訪ねてきたのです。駆け寄ってきた子供たちに、そのおじさんが聞きました。「おじさんが、何をもってきたか、わかる?」するあの女の子が「大きなパン!」といったのです。おじさんは、外套から大きなパンを取り出したのでした。
主イエス様が女の子の祈りのお応えになられたのでした。
これは、今から、100年前なんとロシア革命の時の証です。
このおぱあさんもこのこの教会と同じくクリスチャンですから、信仰のある方だと思いますが、まさかこの小さなパンの証が
100年も過ぎて、何千キロ??遠く離れたこの日本で、この病院の祈祷週で話されるとは想像も付かなかったことでしょう
「最も質朴な働き人がキリストの協力する時、地の果てに響くような震動を起こす弦に触れることができ、永遠にメロディーをかなでるのである。」ミニストリーオブヒーリング
この地上の、ほとんどすべての出来事、それがどんなに大きく見えるものであっても、それは消えてなくなってしまうものです
しかし、主の御業はたといそれがどんな小さな、あるいは消えてしまいそうな出来事であっても、永遠に向かって、そして地の果てにまで広がっていくものです
「神様のための働き人一人一人にこの思想が刺激となり、励ましとならなければならない。この世では神様のわれわれの働きは、ほとんど成果がないように見えることがよくある。われわれは熱心に根気よくよいことをしようと努力するが、それでもなお、その結果を目の当たりに見ることが許されないこともある。われわれにとってその努力はむだになったように見えるかもしれない。しかし救い主は、われわれの働きが天に知られていて、その報いが必ずあてられるとわれわれに確証しておられる」教会への証
聖書の中に
「だから兄弟たちよ。堅くたって動かされず、いつも全力を注いで主のあざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」と書いてありますがその通りだと思います
さて、20年も前の話ですが教会に暗い顔をして訪れました
「どうしたの」と聞かれたので、「自分の罪が多くて、重くて・・・」と話しました
すると、「それでは、イエス様に清められた罪が2つか、3つはないの?」と聞かれました。
「いや2つか、3つはあるのですが、まだまだ多くて・・・」と話すと、こう言われました。「それは傲慢です」
そして、静かにこう話されたのでした。「わたしたちの罪は髪の毛ほどもあるかもしれないけれど・・・3つ清められたら、3つだけ感謝じゃないの・」
当時、このような大きな集会で、自分の醜い心に悩みながら、「なんで自分は他の人と違ってこんなに心がかたくなで、醜いのだろう」と悩んでいた時でした。その時、「私たちの罪は髪の毛ほどもあるかもしれないけれど・・・3つ清められたら3つだけ感謝じゃないの」との言葉が心を打ったのでした
「小さいことに忠実である」とは小さなことに感謝することでもあることに気づいたのです
聖書の中には、本当に多くの宝物が隠されています。
ある時、まだ一人暮らしだった時、かなり風邪をひいてしまい、咳がひどく息が止まりそうになってしまったことがありました。
クリスチャンが自分のために祈るのは恥ずかしいし、祈りを聞いていただく値打もない者ですが、
「神様、聖書に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と書いてあります」と祈りました
すると、その瞬間に咳がやみ、呼吸が楽になったのです。
主の御名を心からあがめます
また、学生の時でした。最終学年になり、履修科目を申請する日が、土曜日安息日にあたりました。その日に出さないと「退学処分」と学則に書いてありました。金曜日に教務にお願いに行きましたが、「だめです」と断られました。心の中に聖書の言葉
それはもし金の像を拝まなかったら、燃える火の炉の投げ込まれるという命令が出た時の話です
その時神様の僕の方が話しました。
「もし、そんなことになれば、わたしたちの仕える神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」
この「たといそうでなくても」と言葉でいっぱいになりました
この聖句はその後の人生でとっても助けられた聖書の御言葉の一つです
そして、教務が閉まる時、「たといそうでなくても」と思って教務室に入った時
「そうですか、それでは火曜日に持ってきてください」と言われたのでした。
あの時の教務室を出るときの感動は今でも覚えています
またその他にも、経済的な問題で、食べ物すら心配していた時(^^;)には
「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」との言葉が与えられたのです。
そして経済が安定するまで、ほとんど毎日、「無料で」健康的な食事を与え続けてくださったのでした。
めぐみはわたしばかりにとどまりません
聖書の中に
「与えよ。そうすれば、自分にもあたえられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところにいれてくれるであろう」
とかいてありますが、イエス様の証を聞かれた方が、クリスチャンではありませんでしたが、あの3.11の大震災の時に、宮城、福島の教会に援助するとの話を聞き、大きな犠牲を払って医療品を下さったり、この教会、また病院、海外の伝道地に至るまで、たくさんのパソコンや、医療機器、医療品をくださったのでした。
人生にはいろいろなことがあります。素晴らしいこともあることでしょう。もしかしたらつらいこともあるかもしれません。
僕自身もまた、たしかに今までいろいろなことがありました。
しかし、「神様はいかなる艱難の中にいる時でも、わたしたちを慰めて下さり、また、私たち自身も、神様に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる艱難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである」との聖書の御言葉は真実でした
人間は嘘をつくものです
しかし、聖書に書いてあるすべての約束はすべて真実です。聖書の中にはその他にも話しきれない、また数えきれないほどの宝に満ち溢れています。
最後に2000年前イエス様が仰せになられた聖書の言葉をもって話を終わろうと思います
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物を売りはらい、そしてその畑を買うのである。」
この畑とは聖書の事を表していると言われています。
この聖書を私たちのところに届けるために、文字通り、持ち物を売り払って、あるいは生命や人生をかけてきてくださった方々、
またこの宝物を私たちが手の届くところにまで、十字架にかかってまで携えてきてくださった主イエス様に心より感謝いたします。
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