2016年9月18日日曜日

準備するのは今 沖縄の教会での原稿

 皆さん、おはようございます。沖縄に帰ってくるとき、いつも安心してうるま教会に来れることをとても感謝しております。さて、わたくしは、聖職者ではないので、説教はできませんので証をさせていただいます

第三天使のメッセージ、別名1888年のメッセージで繰り返し強調されているメッセージがあります。

それは「創造の福音」です。原文をそのまま読みます

「神が「光あれ」と仰せになった時と、光の存在との間には一秒もありませんでした。」

「イエスはある人に、「あなたの罪はゆるされる」とおっしゃいました。それがそうなるまでどのくらいかかりましたか。「ゆるされる」という言葉とその事柄との間にはいかなる時間的長さもありませんでした。「あなたの罪はゆるされた」という同じその御言葉は、今日皆さんに語りかけています。なぜ、皆さんに 語りかけられているこの御言葉とその成就との間に何らかの時を経過させるのですか。皆さんは、つい先ほど、神の言葉と物事の出現との間に、一分あるいは一秒でも時の経過を認める人 は皆進化論者であると言いました。たいへん結構です。そうなのです。それにしがみついていて下さい。さて、お尋ねします。 神があなたにゆるしをお語りになる時、どうしてゆるしを得るまで、それがあなたの内で真実になるまで、何日も経過させるのですか。」

「このように、栄光のうちにあって主にお会いする備えには、 うんざりするほどのあきあきするような過程を要しないという ことがおわかりになりませんか。非常に多くの人々が自分自身を見つめています。彼らは、本質的に主にお会いする用意を完全にするためにはとてつもなく長い時間をかけねばならないことがわかっています。もしそれが進化によってなされるなら、決して成し遂げられることはないでしょう。しかし、創造によってなされるならば、確実にすみやかに成し遂げられるでしょう。」

「進化論者である事をやめて、主の創造の御言葉があなたのために働くままにさせましょう。その御言葉が発したことをあなたの内に成し遂げるため、創造のエネルギーが働くようにさせましょう。 そして、この場を去る前に、神はあなたに主に会う備えをさせることがおできになります。実際そのことの中にあってこそあなたは主にお会いするのです。そしてあなたがこのようにして主にお会いしたとき、また、このようにして日々主にお会いする時、そのときあなたは主にお会いする用意ができたのではないでしょうか。あなたは信じますか。みなさんは、神が語ったとき世界が造られた事、神が語ったとき御言葉によって光が生じた事、そして神が語ったときらい病人が「直ちに」清められた事を信じています。しかし自分に関しては、御言葉が語られる時と、事実が完成される時との間にかなりの時間が経過しな ければならないと考えています。おお、なぜあなたは進化論者 になろうというのですか。創造、創造、―それが事実なのです。」


さて、ある集会の時でした。ちょうどその時の自分はかなりコチコチになっており、聖書に書いてあることに、「これもなっていない、あれもなっていない」と大変悩んでいました。

「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という状態でした。

ところがその集会において、心を折る、人の話を聞くということを学び、心に言葉がすっと入ってきて、そして心が和らげられたのです。その時「やらなきゃ」と思っていた心が「やっていきたい!」と言う心に変えられたのです。そして、神様は怖いと思っていた心が「神様は愛である」という心に変えられて、聖書や証の書に書いてあることが「なんだ、皆自分の幸せのためにかいてあることじゃないか」ということに突然気づいたのです。

神様や聖書や、証の書が変わったのではありません。心が変わったのでした。これは本当に驚くべきことでした。詩篇11992節にこう書いてあります。「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。」また、豊かな人生の秘訣に「神を受け入れる者はすべて、神のみことばの主題が喜びであることをさとるのである」と書いてありまする光景も見ている光景もすべて変わりました。各時代の希望の中にも、イエス様にお会いする前は、太陽が残酷に思え、小鳥の鳴き声を嘲笑に聞こえた方が、イエス様にお会いして、「自然の万物が自分と一緒に神を讃美しているに見える」とありましたが、イエス様を知る前、友人が「夕焼けがきれいだね」と言われても、「そう?」と寒々と言っていたものが、自然界の中に、聖書や証の書の中に、感動をもって、神様のメッセージを読むことができるようになっています。心一つで全てのものが変わるのでした。

ちょうどその頃、わたしは職場の病院から派遣されて臨床工学の学校に行っていました。入学するときは、募集要項を見てまず、安息日は休みの学校を選びました。

そして、入学試験の面接の時も、「土曜日はお休みですか?」と聞くと、「休みです」との答えだったので入学することになりました。ところが、最終学年になり、いわゆる大学病院に行って実習の勉強に入ったとき、突然、学校から実習中、毎週実習の様子の報告のため「土曜日に学校に出てきなさい」との指示を受けたのでした。実習が始まると担任の先生からやはり学校に出てくるように言われました。担任の先生と話しても平行線でした。校長先生は、カンカンに怒っていました。一年生の時の担任の先生も来られ、「私ならとっくに切っとる」と話して去っていかれました。

今まで安息日に、学校の試験や、仕事などが当たった時は、それこそ必死の顔をして、祈り、聖書、証の書を読み、研究し、断食をして、神様に救出とお導きを求めてきました。憐れみ深い主は、そのたびごとに、本当に驚くべき奇跡をもって、乗り越えさせてくださり、人生における最も尊い経験へと作り替えてくださいました。しかしいつも・・・「いつも喜んでいなさい」という御言葉はすっかり忘れていて、悲壮な、必死の表情で歩んでいました。そして、問題が解決したとき、いつも「今回も笑顔で乗り越えられなかった」との思いに沈んでいたのです。しかしこの時は「今まで使ってしまった授業料どうしよう」でもなく、「退学になったらどうしよう」でもありませんでした。主イエス様に心が変えられていて、「イエス様、証の時が来ました」との喜びに溢れていたのです。校長先生との面接を待っている間、親しい工学博士の方が来られ、「世界で一番幸せそうな顔をしているね」と言われました。主が支えてくださっている証拠と思え、主に感謝したしました。

いよいよ校長先生と面接になりました「教会に行くので、学校を休ませてください」といっても理解してくれなかったので、それまでのイエス様からいただいた証を話し始めました。
怒っていた校長先生の顔が和いて行くのを見えました「そんな貴徳な人がいるんだ・・・」
そして、是非その話を文書で提出しなさい、と言われました。合計3枚出しました。
その文書は、臨床工学部の先生や、他大学の非常勤講師にまで伝わり、なんと学生たちまで伝わりました

そして、それはSDAの他の証も加わり、大学や医療器メーカーにまで広がっていきました。そして大学病院の方や、医療器メーカーの方々が購入すると何百万円もする機器から、注射針などたくさんの医療消耗品、事務消耗品に至るまで、それこそ何年間にわたって教会の機関に、また3.11の時には福島の教会に寄付してくださることになったのですそれら、超音波診断装置、大腸内視鏡、上部消化管内視鏡、生体情報モニター、分娩監視装置などなど数え切れない一つ一つの出来事の状況を今でも鮮明に覚えております。それは、単にそれらを下さったことだけが嬉しかったのではありません。

一部の人々が、伝道が難しいとか、クリスチャンが少ないと言っている日本で、これだけ多くの人々がイエス様の証の心をゆり動かされて、教会の学校や、病院に対して「何かしたい」と思うまでにしてくださったことに感謝したのでした。やがて他教派のインターネット新聞の職員と知り合いになり、是非その新聞に証を投稿してほしいというので、彼に原稿をわたし、数々の証が掲載されるようになりました。あるとき、その友人から連絡があり、「君の証の中に引用しているのはどの本からか?とっても確信に満ちている」と聞かれました。そこで、「キリストへの道と(希望の光2に入っている)クリスチャンの奉仕です」と答えました。話によると、今その教会の若い牧師の4割が証の書を買い込んで説教しているそうです。

そして、校長先生ともすっかり仲良くなり、専門学校の方も、単位をくださり、卒業もさせてくださり、そして国家試験も合格し、今職場の病院で医療機器管理科にて働かせていただいております。その祝福は大きく広がり、今も続いています。

昨年度の冬、職場は経営的にちょっと厳しかったのですが、メーカーの方々のあり得ない贈り物により、私の仕事の範囲だけで、わずかのうちに1000万円ほどの経費削減、近年もっとも多いプレゼントが送られたのでした。証はインターネットを通じてアメリカ、マレーシア、ウクライナ、ヨーロッパ、ロシア、韓国、などでもご覧になっているようですし、

また今は教会でコミュニケーション部に選ばれ、断ろうとしたのですが、どの証の書を見ても「やりなさい」と書いてあってので、受けました。いつも余っていた教会ニュースが1冊も余らなくなり、ホームページやライブ中継を見た求道者、長期欠席者、ご病気の方、外国の方、離島の方、小さな教会、集会所の方々から感謝の言葉、証が次々に届き、初めての方々も含め、訪問者数は3万数千、インターネットアクセス数は11万を超えています。
これらは神様の戒め、私たちの幸せのために神様ご自身が聖別してくださった安息日から始まったことでした。
祝福の山に「神様は大いなる愛をもって、わたしたちのうちに聖霊による尊い徳を育成しようとしておられます。神様がわたしたちに障害や迫害や困難の来るのをおゆるしになるのは、のろいとしてではなく、わたしたちの生涯の最高の祝福としてでます。」とは本当の事だと思いました。

そしてもう一つ、この事が私の心の中で決定的な大きな変化、まったく新しい心が与えられました。恥ずかしいですが、私は今まで職場の病院を批判してきました。もしかしたら事実としては間違ったことではなかったかもしれません。しかし、批判をさせるなら悪魔の方がもっと上手に、また正確に指摘することができるでしょう。

その時の私の心が証の書で正確に書かれていました。

「いやな経験を持ち、本当の宗教を構成するものがなんであるか、全くわからなくなってしまうまで苦しみ、疑い、不平をこぼし、罪を犯し、後悔して疲れ果てている人々は、この無我の働きに携わっていない人々である。彼らは世の中に戻って行くことができないと感じているので、つまらぬねたみ、うらやみ、失望、後悔をいだいてシオンのすそにすがりついている。彼らはあら捜しのかたまりであり、兄弟たちの誤りや過失で生きている。彼らの宗教生活には、希望のない、信仰のない、味気ない経験しかない」

しかし、ある時 証の書の次の言葉に出会い、人生は根本的に変わります

「もしキリストがあなたのうちに「栄光の望み」となるならば、あなたは、他の人々を見張り、彼らのあやまちを暴露しようというような性向を持たなくなるでしょう。非難したりとがめたりしようとしないで、助け、祝福し、救うことがあなたの目的となるでしょう。」 祝福の山

そしてその私が批判していた教会学校や職場の病院に、証を通して主が溢れるばかりに心電計や、超音波診断装置、などなどが送られていくの目のあたりにして、神様の大きな愛を知り、非難し、咎めるより助け、祝福し、救うと、人生が変わったのでした。ここにリストがあります、数万円、数十万円、数百万円と様々ですが数百件に及んでいる。この一つひとつに素晴らしい証があります。わたしの醜い、間違っている心を変えるために主はこれほど多くの・・お恵みを注ぎ続けてくださっています。

神様は創造の福音、創造の御言葉によって今までになかった心を創り出してくださいます

かつて私は「伝道」と聞くとすぐに周り右、逃げ出していたものです。しかし各時代の希望(行ってすべての国民に教えよ~)に次のように書いてありました。「この世における職業がなんであろうと、第一の関心事は魂をキリストに導くことでなければならない。会衆に話すことはできないかもしれないが、個人のために働くことができる。自分が主から受けた教えを個人個人に伝えることができる。伝道は説教だけではない。病気と苦しみのうちにある人々をやわらげ、困っている人々を助け、落胆している人々や信仰の弱い人々に慰めのことばを語る者は伝道しているのである。」

伝道というのは聖書を渡したり、聖書研究をしたり、トラクトを配ったりすることだけが伝道と思っていました。 「しかし、どんな場所に居ようと、また地位や立場にこだわりなく人に接し、できるだけ彼らを助けるということが真の伝道である。こうした努力によって人の心をとらえることができ、滅びゆく者に接近する門戸が開くのである。」                   ミニストリーオブヒーリング 教えといやし

事に気づいたのでした。今では、「伝道は、最高のリクリエーションである」との証の書の言葉が真実であること体験しております

「教会へのあかし」には次のように書いてあります。
「神のための働き人11人にこの思想が刺激となり、励ましとならなければならない。この世では神のためのわれわれの働きは、ほとんど成果がないように見えることがよくある。我々は熱心に根気よくよいことをしようと努力するが、それでもなお、その結果を目の当たりに見ることを許されないこともある。われわれにとってその努力はむだになったように見えるかもしれない。しかし救い主は、われわれの働きが天に知られていて、その報いが必ず与えられるとわれわれに確証しておられる。」
聖書に次のように書いてあります。コリント人への第一の手紙15-58

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」

さて、最後のもう一つ証させていただきます。

ある時、教会の祈りの会に80歳くらいの一人のおじいちゃんが来ました。体の全身が痛いと話していました。教会では、イエス様の御名によって祈りが捧げられました。するとその痛みがその場ですっかり癒されたのでした。

それから数年後、再び教会でそのおじいちゃんと再開しました。その頃です。この証の書の御言葉に出会いました。「真の礼拝は、キリストと共に働くことにある。祈りと勧めと話は、しばしば結びつけられる安い実である。しかし良い働きや、困っている人、父のいない子、やもめなどを世話することに表される実は本当の実であって、当然良い木に実るものである。レビュー&ヘラルド」

今も礼拝ですし、話もしておりますし、「祈りは強力な武器である」「祈りは魂の呼吸である」また、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」ことも事実ですが、ここに祈りと勧めと話は・・・「安い実である」と書いてありまして、たいへん衝撃を受けたのでした。また聖書の「真にたよりのないやもめたちに、よくしてあげなさい」「特に信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」という御言葉によって、心の中にまったく新しい心が創造され、この方のところへ訪問にするようになりました。しばらくしてご病気になり、何度か、職場の病院病院にご入院されました。そのころから夜や夜中、あるいは仕事中に電話がかかってきたり、新聞や飴が欲しいというので買ってきて・・・そのまま受け取られ、ふと、あれ?お金は?なんて思いながら、言い出せもせず、袋にレシートを入れて渡しましたが、残念ながら・・・何も変わりませんでした。その他いろいろあり、「感謝がないな~」とも思っていました。

ご家族はすでになく、ご親戚とはまったく疎遠の方でした。しかし、不思議に、時にかなってそのおじいちゃんに必要な助けが与えられて行き、イザヤ書の中の「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」とのお約束を神様が文字通り守られているのを見ました。そして自分の心の冷たさと、神様の愛の大きさの違いを教えられる経験となりました。人は、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と見ますが、神様にとっては一人ひとりが「大切な子供」として見ておられると思いました。

ご病気が急変され、死を目の前にした最期の時間、酸素マスクの下の苦しい息の中にあっても大好きな讃美歌を歌って神様を讃美しておられました。そして、お見舞いに来られた方々の手を強く握って「ありがとう、ありがとう」と感謝していました。

最後というので、それまでまったく疎遠だったご親戚の内、甥子さんが来られました。そこで、おじさんの姿や人を許す力、その方ここまで支えられてきたその力を知りたい、そして最後の時の内科病棟の看護師さん方のやさしさ、お葬式の時にみんなで献花してくださった事、チャプレン、教会の看護大学の学生の挨拶する姿などが心に残った、とおっしゃり、教会にこられるようになったのです。

やがて甥子さんは安息日にも教会に通われるようになりましたが、ずっと「信じる、ということがわからない。」「聖書は難しくてわからない」と話していたいのです。しかしある時から、「信じるって素晴らしいですね。この信じるということを伝えていきたいですね」と話されるようになり、人をまったく造り変えられる神様のお力を強く感じました。そして今年3月にバプテスマを受け、いつも神様が共にいてくださるので喜びと勇気とをいただき、そして家族からも「お父さん丸くなったね」、と言われたそうで、大変喜んでいらして神様に感謝しています。

 おじいちゃんが亡くなられたあと、とても悲しく、重かったですが、神様のグリーフケア・・・ある時から、本当に晴れ晴れとした心になりました、表現が難しいのですが、それはちょうど神様が「私の子供をみてくれてありがとう」とおっしゃっておられるかのようでした。悲しみは一掃され、心は晴れ晴れとして、それまでの様々な思い出を本当に素晴らしく、尊い感謝の思いで振り返ることができるようになりました。

聖書にこう書いてあります。『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』マタイによる福音書

私たちの主イエス様は、肉体の痛みを癒し、死に面した方の心に神様を褒め称える心と人々に感謝する心を与え、悲しむ心を喜びと感謝の心に変えてくださり、また死といつ一見最悪と思われる出来事からも、永遠に至る新しい心、信じる心を創造することがおできになります

第3天使のメッセンジャーは次のように言います
「イスラエル人は聖書を持っていました。彼らは神の言葉を知っていました。彼らは、聖書の民、神の民であることを誇りにしていました。彼らはそれを読み、会堂で、「わが口から出る言葉 ……わたしの喜ぶところのことをなし」と説教しました。彼らはその言葉を読むとき、それはみな正しい、事はなしとげられねばならない、我々はその必要性を見る、だからそれをしよう、 我々が御言葉の言うことを成し遂げようと言いました。それから彼らは、それを成し遂げる為に最善を尽くしました。彼らに とって長い時間がかかりました。本当のところあまり長すぎて、 彼らは決して成し遂げはしませんでした。」

また「この場には、はい、わたしは信じる、わたしはそれ(新しい心) を持つのだ、わたしは御言葉がそれを成し遂げる事を信じる、 と言ったかたがたがいます。しかしながら、そのかたがたは次の集会まで時を延ばしました。そしてそれが続き、何年も過ぎて行くのです。ですからその人々はそれだけの進化論者にすぎません。」

1888年のメッセージャーたちは次のように語ってます。
「神様の御言葉、義の言葉、生命の言葉が“今”、“この場で”与えられています。あなたは 今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいます か?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純なことです。」

今、この場で・・・今・・・今日の午後でもなく、今日家に帰ってから。よく祈ってから。。もっと強い確信を持ったら、、、良い準備ができたら。。。いつか・・・とは書いていません。この場で。。。もっと素晴らしい集会、もっと素晴らしい牧師、あるいは山の中に入って、荒野に行って、自分の家で。。。とは書いていません。
今、この礼拝の時間に、この場で、この教会で 神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が与えられています。あなたは 今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいます か?これこそ信仰による義認です。・・・世界で最も単純なことです

もちろん、この教会の皆さんは各時代の大争闘を読まれているので「聖書は、清めの働きが漸進的なものであることを、はっきり示している」とあり偽りのリバイバルは「清めとは瞬間的な業であって、ただ信仰だけによって、完全な清めに達することができると主張している」と書かれていることはご存知だと思います。私は清まったから、心に浮かぶものは清いと思い込むのは清めから程遠い証拠であって、イエス様に近づけば近づくほど自分の欠点が見えてきますとあるとおりです。

「ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」これは原語では新しく造られ続ける事こそ重要なのである、という意味で、1888年のメッセンジャーはこう語ります「人間は信仰によって、つまり神の言葉に頼る事によって義と造り変えられるだけでなく、造り変えられたのと同じ方法で生き続けるのであり、…同じ経験を重ねるのです」
 
 まだ教会に通い始めた頃、教団の全体集会か何かに出席していた時の事です。話はどこへやら・・・心の中でこんな事を考えていました。「皆、どうしてこんなに涼しい顔で座っていられるのだろう。私の心はこんなに罪でたけり狂っているのに・・・自分だけおかしいんだ、自分だけ狂っているんだ」と思っていました。その後もそんな心がずっと続いていたある時、暗い顔で教会に入ってきました。教会の方に「どうしたの」と聞かれたので、「自分の罪が多くて、重くて・・・」過去の罪について悩んでいたのではありません。自分の心の中に現実として存在する今の罪について悩んでいたのでした。すると、「それでは、イエス様に清められた罪が2つか、3つはないの」と聞かれました。「2つか、3つはあるけど、まだまだ多くて・・・」すると「それは傲慢です」と言われました。そして静かにこういわれたのです「わたしたちの罪は髪の毛よりも大きいかもしれないけれど、3つ清められた3つだけ感謝じゃないの」そして、「自分だけじゃないんだ」と思いました、そして心が前に向いたのです。傲慢とは何か、そして謙遜とは何か・・・それを教えていただいたのでした

アブラハムさんは、子供が生まれませんでした。科学的に見ても、経験的に見ても、子供が授かる望みは0%でした。しかし、子孫は星の数のようになるとの神様の御言葉を信じ、今、現実にそのようになっていることを見ることができます。自分の中には良いものがない、現実を見ても、科学的に見ても、経験的に見ても0% 絶望かもしれません。

しかし、イエス様は「そうしてあげよう。清くなれ」とおっしゃいます。各時代の希望は約束します「この世の祝福を祈り求める時に、われわれの祈りに対する答えは遅れるかも知れない。あるいは神はわれわれの求めるものよりもほかのものをお与えになるかもしれない。

しかし罪からの救いを求める時にはそうではない。われわれを罪から清めて神の子とし、聖なる生活を送ることができるようにしてくださるが神の御心である。」

キリストへの道はこう約束します「ですから今、神のもとへ行き、罪を洗い去って新しい心を与えてくださいと願いなさい。そして、神がお約束なさったのですから、そうしてくださると信じなさい。これはイエスのご在世の時に教えられた教訓であって、神が私たちにお約束になった賜物は、それを得たと信じるときに、私たちのものとなるのです。」

それはいつか・・・ではなく、「今」「この場で」この瞬間です

イエス様は次のようにおっしゃいました。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。」
だれでも・・今まで新しく生まれ変わった経験をもっていても、あるいは黒星続きであっても、わたしは十分天国に入ると自信を持っていても、わたしはとってもダメ・・・と思っていても・・
誰でも、・・・今、創造の記念日、この安息日に、この場で、この教会で、私の罪のために十字架に上げられたイエス様がいらっしゃいます。無から有を創り出すことおできになる唯一の創造主、イエス様に感謝致します。最後に聖書を読ませていただきます
ガラテヤ人への手紙 615節から
「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。」

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