2015年8月8日土曜日

だれでも、新しく生まれなければ

「だれでも、新しく生まれなければ」

希望の賛美歌
初めの讃美歌258番  
終わりの讃美歌150
聖書朗読
ガラテヤ人への手紙615
「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。」

瞑想の言葉
「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、果たして自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人がいます。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは何度となく、欠点やあやまちを悔いてイエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、私たちのために執り成しておられます。」(キリストへの道 弟子としての証拠)

おはようございます
いつも病院のために、たくさんの祈りとまたお助けをいただいていますことを心のより感謝いたします。
ある時、一人の牧師さんがとっても悩んでいました。ご家族と一緒にハイウェーを車で走っていた時の事です。道路にはる標識を見て、「わたしも神様からこのような標識がほしい」と願っていました。
食事時になったので、車をパーキングに止められました。ご家族は食事をしに食堂に入りましたが、ご本人は食事をする元気がなくて車の横に椅子を出して一人座っていました。
すると目の前にある公衆電話が鳴り始めたのです。「お店の人が取るだろう」と思っていましたが、誰も取らないので重い腰を上げて、電話を取られました。すると電話口から、「N先生ですか?」と自分の名前を言われたのでした。
電話の主の方は、自殺しようと思っていました。しかし、3年程前この牧師さんの説教を聞いたことがあり、死ぬ前にもう一度この先生の説教を聞きたいと思っていました。しかし、住所も電話番号も知りませんでした。もうだめだ・・と机の上に顔を伏せたところ、目の前に数字がずっと並んだのです。「なんだろう」と思い、急いでその数字を書きとめました
そして、電話をかけたのでした。
「あなた、わかっていますか?これは私のオフィスの電話番号ではありませんよ。別の州のハイウェーのたまたまよったパーキングエリヤの公衆電話の電話番号ですよ」
その後二人は会ってお互いに励まされたのでした。
この話を、職場の病院の隣の教会の安息日学校の青年のクラスで話していました。
すると青年が手を挙げて、「私の知っている人も同じようにして教会の電話番号を教えてもらったそうです」と話しました。
また、ある時病院で医師がニコニコして話されていました。お話を聞くと「在宅で、末期の癌で助からないと言われていた人のために、お祈りしていたらよくなったんだよ」ところが1年?くらいたってその医師に、「あの時は良かったですね」と聞きましたら、「え~と何だっけ?」と言われてしまいました。
イエス様がこの地上にいらした時、数多くの人々を御癒しになられました。聖書に書いてある通りです。主は十字架にお掛りになられましたが、よみがえりになられ、今もなお生きておられ、お約束通り、祈りにお答えになられ一人の人の命が助かった証です。
さて、「証とは、新しいことを提示することではなく、人々が忘れていたことを思い出させるものです。」とあります。
私は、聖職者ではありませんので、説教をすることはできません。そこで、今日は「私が目で見た事、耳で聞いた事、手で触ったことについてお話させていただこうと思います。」
いまに至るまで、主は多くの御業を通して私たちを導いてきてくださいました。今日は
証を聴くというよりも、今まで主がなしてくださった数々の御業を思い出してくださったらうれしく思います

聖書をお読みします。ルカによる福音書2250節です。
「そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落とした。イエスはこれに対して言われた。「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。」
すべての福音書に記録されている出来事ですが・・
教会の夏季聖書学校が終わって、子供たちに感想を聞いていた時です。こんな話になりました。
819日の朝、あるとっても熱心なSDAのクリスチャンの方・・・
朝、何となくこの日には何か起こるであろうと予感がして自宅を出発する前に、ご夫妻でお祈りし、また繰り返し2回、祈って神様の保護を求めたそうです。
同じ時刻、19歳と15歳の二人の青年が商店の窓を壊し、品物を盗んで自動車に乗せました。しかし、隣のパン屋さんが朝早く来ていて、警察に通報・・・つかまりました。しかし、隠してあった小さいピストルをつかって 警察署長を脅し、その自動車を盗み、時速100キロ以上の猛スピードで逃走しました。
そして、先ほどのクリスチャンの御主人が運転する車と正面衝突したのでした・・・
青年1人も入院しましたが、そのクリスチャンの御主人の方は・・・頭蓋骨があちこち複雑に破壊・・
脳からの分泌液は左の目と、耳から流れていました。片方の耳は千切れ飛んでいて、上下のあごも折れていました。左の目はつぶれていました。人工の耳が用意され、人工の目が用意されました。
お墓の準備も・・・されたそうです。
水曜日の朝、4時ごろ、奥様は暗やみの中で窓の外を眺めつつ、「どうしてこのような事が起こって、自分が独り残されるのか」と感じつつ、聖書のみ約束について考えました。そのとき、ヘブル135の 主が、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われていた、尊いみ約束を思い起こしました。
その日の昼12時に、奥さんは牧師さんたちをお呼びなられ、特別なお祈りをお願いしました。やがて牧師さんたちが来られ、患者さんに油をそそぎ、特別なお祈りが捧げられました。
牧師さんの手が患者さんの額に触れるや否や凄いことが起こりました。奥さんはご主人の手を握っていましたが、その両手に強い震動が始まり、ご主人の全身が震えました。奥さんは神様のなされた事を見たいと思って、目を開いて自分が握っていた夫の手を見たところ、指先の黒いのが消えて普通のピンクに戻り、開いていた口は腫れていた舌を中に入れて閉じ、彼の息も平常のように鼻を通してなされ、腫れも引っ込み始めました。最初に鼻の形ができ、次に口、その次にあご、その次にのどと、順番に腫れが消えて、普通のように回復しました。
多くの者たちは、祈りが終わって、涙を流しつつ立ち上がりました。牧師は「わたしたちは静かに外に出ましょう。兄弟はきっと健康になります」といって、患者さんの手を握ったそうです。

しばらくして入ってきた医師も看護師も自然の良い色になった指先、事故の際飛び出て空になっていた眼球、ちぎれてなくなっていたはずの美しい耳が・・・そこにできていたのを見たのでした。
普段はとても落ち着いているその医師は、病室の外に飛び出して、「スレーボー氏の目ができてみえるようになった」と叫びました。新約聖書に書いてある通り、救い主なるイエス様がお癒しになられたのでした。スレーボー―氏は奥さんから自分の事故の事を聞くと・・・「自分は何の痛みも感じなかった」と答えられたのです
さて、ご夫妻は、監獄に入れられていたあの2人の青年に会いに監獄に行かれました。
2人の青年は監獄の中でもやはり悪・・・でした。ご夫妻は二人に会われ
「キリストへの道」ともう1つの本を渡されたのです。青年たちは・・・始めは驚いていましたが、
「喜んで読みます」と答えました。そしてその監獄の所長さんも「わたしもその本を読ませていただきます」とおっしゃったのです。
やがて青年は出獄しました。その翌日は安息日、この青年のバプテスマの日でした。
ご夫妻は青年をSDAの学校にいれ、牧師を目指して勉強するようになりました。
教会の子供達がこの話を聞き終わるといっせいに明るい歓声が上がりました
「イエス様って、すご~い!」その声はまるで天使の声のように聞こえました。「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」とのイエス様の御言葉を思いました。そして「どこに書いてあるの?」と聞かれたので、この教会の棚の奥にある野崎金一先生と言う方が記録してくださっていた、大人の読む(大人も読まない?)本を教えました。
子供達はめいめいみな小さい手にこの本を持って、小学校2年生くらいですから、読めない漢字もあったと思いますが、夢中になって読んでいました。

主の力は何もないところに何でも創造できるという能力です。ですから主は力のない者を通して奇跡を行う事ができるのです。それで何でもキリストの創造の力を思い起こさせるものは、我々の霊的力と勇気を奮いたたせるに違いないのです。そしてこれが安息日の目的なのです。」EJワゴナー

イエス様は何もないところから目や耳を創造され、何も良いところがない心に新しい心を創造する事がおできになられます。
わたしも何十年か前は、この地上に存在しませんでした。まったく何もなかったのです。しかし、何もないところに何でも創造することが出来になる主が、「いたずらに創造されず」、明確な、確かに御目的をもって造ってくださり、今、この場に存在する事が許されています。
聖書にはこう書いてあります。エレミヤ書3226
「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」。

さて、ある時、教団の全体集会か何かに出席していた時の事です。話はどこへやら・・・
心の中でこんな事を考えていました。「皆、どうしてこんなに涼しい顔で座っていられるのだろう。私の心はこんなに罪でたけり狂っているのに・・・自分だけおかしいんだ、自分だけ狂っているんだ」と思っていました
そんな心がずっと続いていたある時、暗い顔で教会に入ってきました。
教会の方に「どうしたの」と聞かれたので、「自分の罪が多くて、重くて・・・」
過去の罪について悩んでいたのではありません。自分の心の中に現実として存在する
今の罪について悩んでいたのでした。
すると、「それでは、イエス様に清められた罪が2つか、3つはないの」と聞かれました。
「2つか、3つはあるけど、まだまだ多くて・・・」
すると「それは傲慢です」と言われました。そして静かにこういわれたのです
「わたしたちの罪は髪の毛よりも大きいかもしれないけれど、3つ清められた3つだけ感謝じゃないの」
そして、「自分だけじゃないんだ」と思いました、そして心が前に向いたのです
傲慢とは何か、そして謙遜とは何か・・・それを教えていただいたのでした
わたしが初めて、証の書を読んだ時、「良薬、口に苦し」と思っていました
そして、次に聖書や証の書は、やらなきゃと思っていました
ところがあるとき、「これもやらなきゃ、あれもやらなきゃ、これもできていない、あれもできていない」と思っていた時、集会の中で「やらなきゃ」が「やっていきたい」と心が変わったのです。神様怖い、怒られていると思っていたのですが、突然、神様は愛である事に気づいたのです。
なんだ、聖書や証の書に書いてあることは皆、自分の幸せのために書いてあるじゃないか、という当たり前の事に気づいたのです。そして、暗いことや、悪いことしか見えなかった世界が
「地は、主のいつくしみで満ちている」事に気づいたのです。詩篇11992節にこう書いてあります
「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、
 わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう」
神様や、聖書や、おきて、律法、また証の書、また大自然が変わったのではありません。わたしの心が変わったのです。心が変わることにより、すべてが変わるのです。

かつては「伝道」と聞くとすぐに周り右、逃げ出していたものです。しかし
~各時代の希望(行ってすべての国民に教えよ~)に次のように書いてありました。「この世における職業がなんであろうと、第一の関心事は魂をキリストに導くことでなければならない。会衆に話すことはできないかもしれないが、個人のために働くことができる。自分が主から受けた教えを個人個人に伝えることができる。伝道は説教だけではない。病気と苦しみのうちにある人々をやわらげ、困っている人々を助け、落胆している人々や信仰の弱い人々に慰めのことばを語る者は伝道しているのである。」

伝道というのは聖書を渡したり、聖書研究をしたり、トラクトを配ったりすることだけが伝道と思っていました。 「しかし、どんな場所に居ようと、また地位や立場にこだわりなく人に接し、できるだけ彼らを助けるということが真の伝道である。こうした努力によって人の心をとらえることができ、滅びゆく者に接近する門戸が開くのである。」                   ミニストリーオブヒーリング 教えといやし
事に気づいたのでした。今では、「伝道は、最高のリクリエーションである」との証の書の言葉が真実であること体験しております

「教会へのあかし」には次のように書いてあります。

「神のための働き人11人にこの思想が刺激となり、励ましとならなければならない。この世では神のためのわれわれの働きは、ほとんど成果がないように見えることがよくある。我々は熱心に根気よくよいことをしようと努力するが、それでもなお、その結果を目の当たりに見ることを許されないこともある。われわれにとってその努力はむだになったように見えるかもしれない。しかし救い主は、われわれの働きが天に知られていて、その報いが必ず与えられるとわれわれに確証しておられる。」

聖書に次のように書いてあります。コリント人への第一の手紙15-58
「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」

このSDA教会の伝えるべきメッセージは「第三天使のメッセージ」別の名前を「信仰による義のメッセージ」を伝えることです。これは1888年のメッセージとも呼ばれておりますが、お読みいたします。

「神の御言葉、義の言葉、生命の言葉が”今”、”この場”で与えられています。あなたは今、義に造り変えられる事を望みますか?今、その御言葉によって生きようとなさいますか?これこそ信仰による義認です・・・世界で最も単純なことです。」
レビュー&ヘラルド ATジョーンズ 

自分は、価値がない、信仰もない、証もない、良いところも一つもない・・・と思っていた時に与えられた、このメッセージはそれこそ生命の言葉でした。
今まで素晴らしい経験をしたから・・・でもなく、逆に黒星続きだったから・・・でもない。家に帰ってゆっくり考えてから・・・でもなく、もっと強い信仰を持ってからとか、もって聖書研究しから、祈ってから・・・とは書いてありません。「今、この場で」.今、この教会で・・・と書いてあるのです。
そして、

「人間は信仰によって、つまり神様の言葉に頼る事によって義と造り変えられるだけでなく、造り変えられたのと同じ方法で生き続けるのであり、・・・同じ経験を重ねるのです。」

そして、この神様が人生を大きく変えてくださるのです

「主は我々の承諾なしに我々の罪を取り去る事はなさいません。私はいつでも主を選ぶか、自分の罪を持ち続けるかの選択をしなければなりません。・・・これから後神様が罪だと示されたら、それが何であろうと捨てる事をためらうべきでしょうか。・・・主にこう言いましょう『主よ、私は今選びます。わたしはこの罪とあなたとを引換えます。わたしはあなたを選びます』一体どこの誰が自分の罪を示されて失望する必要があるのでしょうか。
さて兄弟がたの何人かはこの選びをさっそくなさっているかもしれません。ここに来た時は何も感じていなかった、今まで気づかなかった何かを聖霊が彼らに示されました。・・・するとそのように示された事を感謝して、罪を捨てるかわりに・・・彼らは失望するのです。『一体どうしよう。私の罪はこんなに多いのか』と・・・
もじ以前には考えてもみなかった罪を示されたとすれば、それは主がこころの深みを清めようとしておられる、というまでの事で、いつかそれはついに心の底にまで達するのです。そしてご自分の御旨にそわない、不純で汚れたものの最後の一つを取りだして我々に示される時、われわれが、『そんなものよりキリストを持った方が良い』と言うならば働きは終了し、生ける神様の印がその人の品性の上に押されるのです」 世界総会ブリテンATジョーンズ

もう一つ小さな証をさせていただきます
私が、病院の命令により派遣されて臨床工学技士の専門学校に行った時の事です。
受験要項に「土日休み」と書いてある事を確認し、また、入試の面接でも「土曜日は休みですね」と念を押し、学校に入りました。
ところが最終学年になった時、臨床実習が始まり、土曜日学校に出てきなさい、と言われたのです。担任と話しても平行線でした。学校側は成績表も出さない、授業料の振込用紙も送ってこなくなりました。
そして、校長先生と面接することになったのです。
以前は、こういう時はドキドキで、それこそ必死に悲壮な顔で祈っていました。
しかし、この時、心は晴れ晴れとしていて「神様、証の時が来ました」との思いでいっぱいになったのです。周りにいた工学博士の先生から「世界で一番幸せそうな顔をしている」と言われました。
カンカンになって怒っている校長先生と面接が始まりました。教会に行くから、学校を休ませて欲しいと言っても平行線だったので、今まで数々みさせていただいたイエス様の証をしました。すると、怒っていた校長先生の顔が和らいでいったのです。そして、その証を文章にしなさい、と言われたので、合計3回学校に提出しました。その証は臨床工学部の先生方、他大学から来ていた非常勤の先生方、また大勢の学生にも広まりました。
そして、それが大学病院や、医療機器メーカーにも伝わり、何百万円もする高額な数々の機器、医療物資が学院、病院、SDAの伝導地、また震災時は福島の教会に届けられたのです。
そして、私自身も校長先生の怒りが解けたばかりか、笑顔になり、無事に卒業し、今は臨床工学技士として病院にて働かせていただいております。
そして、数々の援助は今もなお様々な方法で続いているのです

祝福の山に
 「神様は大いなる愛をもって、わたしたちのうちに、聖霊による尊い徳を育成しようとしておられる。神様がわたしたちに障害や迫害や困難が来るのをおゆるしになるのは、のろいとしてではなく、わたしたちの生涯の最高の祝福としてである。」とは本当の事だと思いました。

「キリストの教会は、たとえ弱く、欠点があろうと、キリストが地上で最高の関心を注がれる唯一の対象であることを、わたしは、兄弟姉妹にあかしする」とありますが、
神様は教会を愛しておられますが、教会の病院や学院もまたその大きな、深い愛をもって愛しておられる・・・事を知ったのでした。
足りない事、正すべき事、数々あるとは思いますが、今後ともご加祷とご援助、またご指導のほどよろしくお願い致します。
先ほどの「キリストは地上で最高の愛の関心の唯一の対象」という言葉の前にはこう書いてあります「どんなに弱く欠点だらけであっても」と・・・
信じる人々一人一人は神様の宮と言われています。ですから、最高の愛の関心の唯一の対象とはわたしたち一人一人なのかもしれません。
信仰による義のメッセージに次のように書いてあります。
「もし本人さえ拒みさえしなければ、今まで生を受けたどんな人間も救われてならない理由はないのです。多くの人はこんなに気前よく与えられている賜物を受けようともしないのです」
                                            サインズ EJワゴナー
最後にもう一つ証を致します
病院で一人のクリスチャンの方がお亡くなりになられました。その亡くなられる時、こうおっしゃったのです
「神様は、今まで最善の事をしてくださった。だからこれからも最善の事をしてくださる。」と。この方は、癒してくださるとお信じにはなられませんでした。また、天国に入れるともお信じにはなりませんでした。そうではなくイエス様ご自身を信じておられたのだと思います。
瞑想の言葉にありますが、
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この地上でも親切な人、やさしい人もいることでしょう。しかし、それでもこの地上には罪があります。しかし天には罪がありません。天使の方々、もっとやさしい、愛に溢れた方々がおられることでしょう。
しかし、イエス様は・・・宇宙で一番、愛に溢れた御方でいらっしゃいます。
イエス様が、あの人のため、この人のために生命をお捨てになられた・・・というならまだ理解できます。しかし、至高の神の御子が、わたしを愛し、わたしのために十字架を背負われ、罪を負われて十字架におつきになられたということは、私の理解をはるかに超えている事です
イエス様は、ご自身の命よりも私を愛してくださっておられるのです。
この神様の御子はもう一度この地上に帰ってくるとお約束なさっておられます。
どうか、宇宙でたった一人、私の罪の故に手と足に十字架の傷跡を持っておられる御方に
栄光が代々限りなくありますように。
最後に、聖書の御言葉をもってこの礼拝を閉じようと思います

ガラテヤ人への手紙615
「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。」

この新しく造られることこそ、という言葉は、新しく造られ続けると行く意味があるそうです

この法則に従って祈りつつ前へ進んでいきたいと思います

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